無駄に明るい

雑記帖

家族や恋人設定のコントが好きすぎる

コントというものはメタや斜めな視点がない以上「ある日常の中の一節をガポッと抜き取った数分」のようなイメージがある。さらばのイタトンのネタは公園で外回りをサボるサラリーマンと泣き虫な子供の数分間だし、バイきんぐの教習所のコントは自動車教習所の教官と昔その教習所に通ってたひとの数分。キングオブコント2012の例えが多いのは私が1番好きな年だから。

 

たまに思うけど、コントには必ず前後がある。そのキャラクターはその数分を生きたあとも生きる。気まずいオチのあとも「客がその世界を見る権利」を剥奪されるだけで、きっとサラリーマンは死んだ目で直帰で帰るのかもしれないし、教官は明日からもその教習所へ行くのだろう。教官と免停を食らった生徒はまた一緒に教習を受けるのかもしれない。そういう「関係性」もコントを見る上でひとつのポイントだと思ってる。今後もその人と友達を続けていくのか、もしかしたら行きつけのコンビニは最近入った変な店員のせいで変わるかもしれない。

 

そう考えると家族のコントが1番「関係性」が発生するものだと思う。家族は関係性なんかの冷たい3文字じゃ語れないほどの思い出が溢れているはずだ。そんな人達の異様な日常が面白くないはずがないのだ。恋人などももちろん最高の関係性で「愛情」という途方もない物体が大前提で横たわっている。

 

私が好きな家族のコントにゾフィーの飯がある。キングオブコントでやってたネタ。あのコントのいちばん怖いところ(面白いところ)は「父親がその日まで子供が母のことを飯を作る人と認識していることを知らなかったところ」だと思ってる。その異様さが凄まじいし、そのまま笑いに繋がってると思っている。そして仮にこのコントのように「母親がいなくなる」のような突発的な出来事がなければそのまま何事もない日常が続いていたのかもしれない。彼の携帯に隠された飯はそのままだったかもしれない。その非現実的な恐ろしさがたまらなく面白い。

 

家族や恋人という「なんでも知っていることが前提」としている関係性の中でなんてことない普通な人がある出来事で、大切な人の前で、一変するかもしれない。その危うさをコントという空想の中で爆発させてくれる。それが途方もなく見ていて気持ちがいいのだ。

私の家族もあなたの家族も大好きな恋人も何かの「コント」を持っているかもしれない。